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試論:「主は一つ」を140文字以内で

エフェソ4章5節は「主は一つ」と教える。この「一つ」という表現及びその意味するところは、ヨハネ10章30節の主イエスの仰せ「わたしと御父とは一つ」と関連しており、主は17章21節以下の祈りでも、「一つ」について言及された。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

【追記】

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。