ヨハネ20章25節は、指や手を釘跡や脇腹に入れてみなければ自分は決して信じないとトマスが言ったと記す。この場合「信じる」は《確信を持つ》の意味合いである。ヘブライ人にとって信仰とは《確信》であり、どっちつかずの心理状態や言行不一致の状態は「信じる」「信仰」のうちには入らなかった。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。
(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。
(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
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プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と平仮名を振った。旧約聖書で「まこと」と日本語訳されるヘブライ語に対応するからだが、このヘブライ語は「真」「実」「信」「誠」のニュアンスを全て含むため通例、平仮名で「まこと」と日本語訳される。
(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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