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試論:「永遠の命を得るには?」を140文字以内で

マタイ19章16節で主に金持ちの青年が永遠の命を得るにはどうすればと尋ねた時、それを彼は比較的容易な事柄と考えていたが、主は同13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があることを、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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マタイ1章19節は、主の養父ヨセフをディカイオス(義人、正しい人)と呼ぶが、25章「最後の審判」の箇所では、ディカイオス(37節、46節)は「永遠の命にあずかる」(46節)人を意味している。つまり、「神の義」を身に着けることこそが、「永遠の命にあずかる」ことを約束するものである。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
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最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

マタイ7章21節で主イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入る」と仰せになられ、23節やルカ13章27節では入れなくなる理由とは「不法を働く」「不義を行う」ことであると明言されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

主の養父ヨセフは、マタイ1章19節で義人(正しい人)と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人(正しい人)は永遠の命が確約されている人を指す(37節、46節)。故に聖書で永遠の命について言及する箇所を読む時、主の養父ヨセフに関連付けて読んでも誤りとは言えない(ヨハネ12章25節)。

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
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