ヨハネ8章31節「あなたたちがわたしの言葉にとどまるなら、真の意味でわたしの弟子である」ルカ6章46節「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながら、なぜ、わたしが言っていることを、行わないのか」マタイ7章21節「わたしの天の父の御心を行う者だけが、天の国に入る」。
【追記】
マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427
(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994
【問】キリストの十字架の犠牲によって神と人間とが和解できたのならば、人間は何もしなくても良いのですか?【答】キリストは神と人間の仲介者となられましたが、天の御父の御心を行うこと(マタイ7章21節)が条件で、それは「他人から自分がしてもらいたいことを、自分から他人にしなさい」です。
(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544