【問】マリアやヨセフに祈り求めることは聖書に合致しますか?
【答】ヤコブ5章16節は義人の祈りは大きな効果をもたらすと説きますが、ヨセフはマタイ1章19節で義人と呼ばれます。また最後の審判の箇所では「祝福された人」は義人と同一視されますが、聖母はルカ1章で祝福された方と呼ばれます。
(注)別エントリー「試論:最後の審判とイエスの両親を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15086
【追記】
創世記2章3節は、神が天地創造を終えられる際、第七の日を祝福し聖別されたと記す。「聖別」とは、特別のものとして尊重するよう人々に要請することを指す。ルカ1章は28節と42節の二か所で、マリアが救い主の母として祝福されていると記す。マリアを特別に扱い尊重することは、聖書に合致する。
(注)別エントリー「試論:『聖別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18374
【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。
(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956
主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。
ヨハネ1章で洗礼者は主イエスを「神の小羊」(29節、36節)と呼んで周囲に注意喚起したが、ペトロは第一の手紙1章19節で「きずや汚(けが)れのない小羊のようなキリスト」と呼び2章22節ではさらに「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とイザヤ53章9節を引用し説明する。
エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。
(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462
(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783
出エジプト記12章では、イスラエルの人々がファラオの支配から解放される代価となった小羊の存在に言及する。ヨハネ1章29節では、十字架において世の人々が罪の支配から解放される代価となるはずの主イエス・キリストの存在について、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と呼んで、注意を喚起したと記す。
(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140
マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。
(注)別エントリー「『《マリアの子》なら私生児』説は誤り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1478
詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことができないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。
(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697
ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。
(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807
詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795
(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620
古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。
ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。
ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。
主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。