弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。
(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665
【追記】
主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。
(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322
主なる神は随所で旧約の民に、あなたたちはエジプトでは寄留者だったのだから、今あなたたちは寄留者に親切にしなさいとお教えになった(レビ19章34節等)。同じ理由で幼子(マタイ18章等)や高齢者(レビ19章32節)もやはりリスペクトされねばならない。彼らは人間の来し方と行く末だから。
(注)別エントリー「試論:『無垢をリスペクトする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7325