主イエスは洗礼者を「預言者以上の者」「優雅に暮らす人なら宮殿にいる」と評された。御自身についても「人の子には枕する所すらない」と語られた。当時の人々は、エレミヤ14章8節に預言された「救い主」を思い起こし、救い主とは宮殿に構えるような方でなくあちこちを訪ね歩く存在だと再認識した。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888
【追記】
福音書の時代、洗礼者ヨハネとイエスのどちらが自分たちにとっての「救い主」であるのか、判断に迷っている人々もいた。しかし、エレミヤ14章8節は、救い主とはあちこちを訪ね歩く存在だと預言している。イエスはあちこちを訪ね歩き宣教を行われたが、洗礼者ヨハネの存在意義はそれとは違っていた。
(注)別エントリー「試論:『洗礼者の使命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17613
ルカ2章21節でマリアの産んだ幼子はイエスと名付けられたが、その理由をマタイ1章21節では「その子は自分の民を罪から救うから」とヨセフの夢に現れた天使が語る。エレミヤ14章8節は救い主キリストの寄留者や旅人のような日々を預言し、ルカ9章58節は「人の子には枕する所もない」と記す。
(注)別エントリー「試論:『イエスと名付けられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13427