福音書の時代のユダヤ教の会堂では、詩編と預言書の朗読が特に重視されていた。従って主イエスがルカ11章9節で「門をたたきなさい。そうすれは開かれる」と仰せになった時、人々は、この「門」とは《神の義の門》(詩編118編19節以下、イザヤ26章2節)のことであると、ごく自然に連想した。
(注)別エントリー「試論:『狭い戸口』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6217
【追記】
主はマタイ7章で「門をたたきなさい」(7節)「狭い門から入りなさい」(13節)「命に至る門はなんと狭く、その道も細いか」(14節)と仰せになられたが、詩編118編19節以下には「正義の門よ、開け。わたしは入って主に感謝しよう。この門は主の門だ。この門から主に従う人は入る」とある。
一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008
(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685