主はヨハネ3章14節で、モーセが荒れ野で「青銅の蛇」(民数記21章8節以下)を上げた(=高く掲げて顕示した)ことに言及された。御自身もやがて十字架上に上げられるが、それは旧約の民が「青銅の蛇」によって命を得たように、御自分の民が永遠の命を得るためである(コロサイ1章20節参照)。
(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、皆、罪の奴隷である」32節「真理はあなた方を自由にする」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。
主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。
ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。
(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべきものを「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。
(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。
(注)別エントリー「試論:一ペトロ2章『乳飲み子』を140文字以内で」も参照のこと。
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エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯し た全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。
キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。
主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。
(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。
(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。
(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。
(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ13章23節は救われる者は少ないかという主への質問を記す。主は27節で不義を行う人々は神に拒まれると答えられ、救われるか否かはあくまでも一人一人が主のおぼしめしに沿うか否かであり、救われる者の多い少ないよりそれ以前にまず神の義(マタイ6章33節)を求めて生きるよう勧められた。
主はルカ13章23節で救われる者は少ないかと問われ、27節で不義を行う人々が神に拒まれると答えられた。確かに「合格者数」や「合格率」がどうしても気になってしまうのは仕方ないが、だからといって、合格と不合格を分ける判断の基準に目が行かなくては本末転倒で、基準は聖書に明記されている。
(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
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