主イエスはルカ16章9節で、まだ信仰心の乏しい時期に誉められたものでない方法で蓄財した富を、後から隣人愛のために使うなら、その人の身に何が起ころうと、その人は永遠の命を得られると教えられた。。箴言19章17節「困窮している人を助けることは主に貸しを作ることに等しく必ず報われる」。
(注)別エントリー「試論:『憐れみの道に命がある』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
箴言19章17節は「誰かの助けを待ち続けて落ち着けぬ思いの人に対して、あなたが親切にすることは、主に対して貸しを作っていることと同じであり、主はあなたの行いに対し、いずれ必ずお返しをしてくださる」と説き、内容的にはマタイ25章「最後の審判」の箇所における主の御言葉と対応している。
(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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