試論:「主」の憐れみと忍耐強さを140文字以内で

出エジプト記34章5節以下で、モーセの前に天から降(くだ)られた「主」というイスラエルの神は、御自身がどのような神であるかをモーセに伝えられた。それは、御自分に心から立ち帰ろうとしている者への慈しみと憐れみと赦しは限りないが、そうでない者には罰するべきは罰する、というものである。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

出エジプト記34章で主は、モーセに御自分がどのような神かを宣言された。憐れみに満ちて忍耐強く罪と背きと過ちを赦す一方、罰するべきは罰すると仰せになり、悔い改めて自分の非を認める者には非常に優しいが、頑として自分の非を認めぬ者には厳しく接すると宣言された(ルカ18章14節も参照)。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
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