コロサイ1章18節は「御子は死者の中から最初に生まれた方」と記すが、主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレム」を創造され御自身の「復活の体」の創造で完成された。その時を「アブラハムのふところ」で待ち続けていた過去の義人たちは、創造された《王国》へと受け入れられた。
(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。
(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエルは「神」と「神の民」の関係を「花婿」「花嫁」に喩えた。主イエスは御自身の御復活つまり「復活の体」(一コリント15章)創造に際し、イザヤ65章で預言された「新しい天・地・エルサレム」を創造されて、新しい「神の民」を迎える準備を完了された(ヨハネ14章2節以下参照)。
【問】ヨハネ17章12節は「聖書が実現するため」と記しますが、一体何が実現したのですか?【答】エゼキエル37章27節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの神となる」イザヤ66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。
パウロは一コリント15章で「キリストの復活」こそ福音の核心であり、キリストの御復活つまり《天上の体(復活の体、霊の体)の創造》こそが信仰における全ての希望の源であると強調した。「天上の体」こそが、キリスト御自身のみならず、キリストを信じる全ての人々にとっての、目的地だからである。
(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『天国の福楽を相続する』を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。
ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家にはたくさん住む所がある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。
(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『誰の死も喜ばれない神』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の《天の国》とはこれだった。
(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
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