主イエスはルカ8章21節で「わたしの母と兄弟たちとは神の御言葉を聞いて行う人々のこと」と仰せになり、聞いて行うことの重要性を再確認された。既に主は18節で「持っている者はさらに与えられ、持っていない者は〜」と仰せになり、聞いても行わない者は御言葉自体から離れていくと御暗示された。
(注)別エントリー「試論:『持つ人は更に与えられ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
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【追記】
ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女性」の発言を否定しておらず逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。
(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『マリアやヨセフに祈る』を140文字以内で」も参照のこと。
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御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。
(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ22章14節の「選ばれる人」とは、神からの招きに忠実に応じて「神の掟を守り通す人」(黙示録12章17節)である。隣人に対して憐れみ深い人は自分も神の憐れみを受ける(マタイ5章7節)。一人一人が隣人に対して取るのと同じ態度を、神も一人一人に対して返される(ルカ6章38節等)。
主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、「わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない」という意味である。
黙示録7章9節は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」が御父と御子を称える光景を記す。イザヤ56章1節は、正義を守り恵みの業を行う人々、すなわち、主が望まれることを選んだ(4節)人々に、救いと恵みの業が訪れることを預言する。
(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。
弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。
(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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