試論:自己正当化???を140文字以内で

「善きサマリア人」の話の契機となった律法学者の質問の動機について、現代人は「自己正当化」「自己弁護」の意味合いでどうしても解釈しがちである。しかしここに登場する律法学者は「最も重要な掟」の質問をした律法学者同様、文脈からは主イエスに何の悪意も抱いていないとしか解釈のしようがない。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

【追記】

主イエスは「仕えるために来た」(マルコ10章45節)と自称されるほどに、へりくだりを重視され、高慢に振舞っていた律法学者たちを厳しく非難された(同12章38節)が、真面目な意図で教えを乞いに来た律法学者たちには的確かつ明快に答えられた(同12章28節以下、ルカ10章25節以下)。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスの「善きサマリア人のたとえ」で、サマリア人は「傷に油とぶどう酒を注ぎ包帯をして、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10章34節)。さらに、その後のことを宿屋の主人に依頼しておくのも忘れなかった。自分の手に負える範囲を超える際には他人の手を借りる方が良い場合も当然あり得る。

(注)別エントリー「試論:『マリアと宿屋』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書と『ろば』を140文字以内で」も参照のこと。
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福音書の本文で律法学者を表すギリシア語と、古代のギリシア語旧約聖書で書記官を表す語は同じで、ネヘミヤ6章で当時の預言者たち皆が周辺異民族に買収される不祥事が発覚後、改革を担った祭司エズラは、預言者としてではなく書記官の立場で民を導き、預言者たちが姿を消し律法学者の時代に移行した。

(注)別エントリー「試論:ネヘミヤ6章の『預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10531

(注)別エントリー「試論:マラキから洗礼者までを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6696

(注)別エントリー「試論:ゼカリヤ13章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6121