試論:「信仰心と夫婦間の愛情」を140文字以内で

旧新約聖書では神や救い主と信者の関係は「花婿と花嫁」「夫と妻」に喩えられた。つまり信仰心は夫婦間の愛情に喩えられたが、その理由は「100%の愛情」でなければならないからである。夫婦間で「自分はあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の誰かにも40%の愛情を捧げる」と言えるだろうか?

(注)別エントリー「試論;『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

【追記】

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

黙示録17章5節「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と、同18章7節「やもめではなく」とは、イザヤ50章1節「わたしが追い出したという、お前たちの母親への離縁状はどこにあるのか」に対応している。「都」とそこに住む人々との関係が、母子の関係に喩えられている。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。