試論:「女性たちの悲しみ」を140文字以内で

主イエスの御受難の際、ヨハネ一人を除いて使徒たちはゴルゴタにはいなかったが、聖母マリアを含め四人の女性たちが十字架の近くに付き添った。またルカ23章27節は嘆き悲しむ女性たちの大群を記し、既にゼカリヤ12章10節以下では神の御独り子の死を嘆き悲しむ女性たちの存在が預言されている。

(注)別エントリー「試論:『十字架刑と聖母マリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18925

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

【追記】

御子が幼子の頃やカナでの婚礼の折を除けば、人々から御子が尊敬や賞賛を受けられている場所にいて御自分も同じく栄誉に与るということを、聖母は基本的に避けられていた。しかしゴルゴタで御子が人々から嘲りや罵りの的となられた際には十字架の傍らに立たれ、御子と最も苛酷な時間を共に過ごされた。

(注)別エントリー「試論:聖母マリアってどんな方?を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
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