キリストの教えに従う現代の信者が、キリストの教えを知らなかった時代の人々の行状を旧約聖書で読む時、とても「聖」とは言い難い粗暴性に困惑するのは当然である。主イエスは旧約聖書中の教えの要約として弟子たちが知っておくべきことは「他人からしてもらいことを他人にしなさい」と仰せになった。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
ダビデは多くの妻がありながら家来ウリヤの妻に横恋慕してつまずき、ソロモンは多数の異邦出身の妻たちのためにイスラエルに異教礼拝を持ち込むのを容認した。婚約者の妊娠に苦悩したが道を誤らず幼子と母を守り通したヨセフに比べれば、女性で道を誤ったダビデやソロモンはあさましい凡人に過ぎない。
(注)別エントリー「試論:『貞潔とは』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖母と聖ヒエロニムス』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『ダビデ王の十字架』を140文字以内で」も参照のこと。
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旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。
(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。
(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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