ルカ16章の「金持ちとラザロ」のたとえ通り古代の旧約の民は、義人たちは死後に苦しみのない場所で過ごすと考えていた。しかしイザヤ65章17以下とりわけ66章8節の預言通り、救い主は御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレム」を創造され、待っていた旧約の義人たちをお迎えになった。
(注)別エントリー「試論:死者の中から最初に復活?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
キリスト教の立場からすると「新しい天・地・エルサレム」及び「復活の体(天上の体)」が創造され、旧約の義人たちがそこに迎え入れられた以上、「アブラハムのふところ」とは、あくまでも旧約の義人たちにとっての「〔永遠の命に到達する以前の〕一時的な通過点」に過ぎず、最終的な目的地ではない。
(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。
(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。
(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
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