一コリント14章20節は、悪意・敵意・恨み等の事柄については、無垢な幼子たちが悪感情とは無縁であることを模範として、キリストの信者は「悪い思い」(マルコ7章21節)とは絶縁するように、日々の努力を怠ってはならぬと説く。主イエスは「人から出て来るものこそ、人を汚す」と仰せになった。
(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468
(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
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【追記】
ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企む ことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
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