主イエスはピラトとの対話で、「真理(ギリシア語でアレテイア)」という表現を用いられたが、ヘブライ人にとって「真理」とは「真理(=まこと)の神」(エレミヤ10章10節参照)つまり自分たちの神である主を指す表現である。しかしローマ人であるピラトにはこのニュアンスは全く通用しなかった。
(注)別エントリー「真理(まこと)の神」も参照のこと。
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【追記】
福音書の時代ユダヤはローマの強い影響下にあったが大半のユダヤ人はラテン語に馴染みがなく、ヘブライ語やアラム語やギリシア語を用いていた。ピラトのようなローマの上流階級はギリシア語も嗜み、他方イエスは幼年期をエジプトで過ごされたがエジプトのユダヤ人は、ギリシア語を話すユダヤ人だった。
「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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モーセに比肩する預言者とみなされたエリヤでさえ、王妃イゼベルに殺されそうになった(列王記上19章)際は、恐れをなして荒れ野に逃げ、自分の任務を放棄しようとしたが、主の養父ヨセフはヘロデ王が幼子を殺そうとした際も、自分の任務を放棄することなく、エジプトへ幼子とその母を連れて逃れた。
(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフは別格』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:モーセとエリヤを140文字以内で」も参照のこと。
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