【1】本田哲郎神父のメタノイア論──イザヤ書40章のギリシア語表現は実際には異なる
聖書ギリシア語「メタノイア(μετάνοια – matanoia)」の意味に関して、本田哲郎神父はその著書『聖書を発見する』(岩波書店)の242ページで、独自の見解を披露しています。
「たとえば、イザヤ書の四〇章でしたか、『慰めよ、慰めよ、わが民を』と、バビロン捕囚のさなかにある民に向けた、神からのメッセージをイザヤが受けます。そのヘブライ語原文は、『ナハムー・ナハムー・アンミー』ですが、そのナハムーということばが、痛みを共感・共有するという、さきほど言ったギリシア語メタノイアの元になることばなのです。『慰める』と言えば、どうしても元気な人が元気の出ない人にことばをかけるといったことだと理解してしまいがちですが、実際には『痛み、苦しみ』を共感・共有することこそ、相手を元気にしてあげることができるのだ、その力があるのだというわけです。つまり、結果として慰めをもたらすことになるのです、と。」
聖書ギリシア語「メタノイア」を「悔い改め」と日本語訳することに否定的な本田哲郎神父の立場は、後で引用する通り、五木寛之氏との対談本『聖書と歎異抄』(東京書籍)でも強く主張されています。
しかしながら、本田哲郎神父が「慰めよ、慰めよ、わが民を」「ナハムー・ナハムー・アンミー」として引用するイザヤ書40章1節において、実際にヘブライ語「ナハムー」(נחם – nacham)に対応している七十人訳聖書のギリシア語の動詞は「パラカレオー(παρακαλέω – parakaleō )」であって、これは「メタノイア(μετάνοια – metanoia)」の動詞形「メタノエオー(μετανοέω – metanoeō)」とは異なっています。
なお、以下に列挙する聖書の日本語訳は、特に注記のない場合は、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によります。
また聖書のギリシア語は、適宜ラテン文字転写して提示します。
・イザヤ書40章1節
「慰めよ(parakaleite)、慰めよ(parakaleite)、わたしの民を」と、あなたたちの神は仰せになる。
前述の通り本田哲郎神父は、「そのナハムーということばが、痛みを共感・共有するという、さきほど言ったギリシア語メタノイアの元になることばなのです。」と発言していますが、実際には七十人訳のイザヤ書40章では、「メタノイア」の動詞形とは異なっている「パラカレオー」という別のギリシア語に翻訳されていたわけです。
【2】アボット・スミスで本田神父の主張を検証する
これに関して、本田哲郎神父は『聖書を発見する』30ページで、次のようにも言っています。
「メタノイアに対応するヘブライ語は、ニッハムということばです。その意味は何かと言えば、to have compassion with、つまり痛み、苦しみを共感・共有するということです(この辺の経緯に興味があるなら、アボット・スミスという人の『新約聖書ギリシア語辞典』が大変有益です。古いものですが、必要に応じてアラマイ語、ヘブライ語と対照してくれています。七十人訳ではどのヘブライ語を、このギリシア語に訳すことが多いか、などというデータも含めて紹介しています)。」
そこで公平を期す意味でも、本田神父の推すその辞典を実際に調べてみましょう。
(archive.org/details/manualgreeklexic00abborich)
(archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/n6/mode/1up)
確かに287ページの33行目には、「メタノイア」の動詞形の「メタノエオー」について記載があり、サムエル記上15章29節やエレミヤ書4章28節などにおいて、ヘブライ語の「ニッハム」または「ナハムー」(נחם – nacham)に相当するギリシア語である旨の記載があります。
(archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/287/mode/1up)
しかしながら実際にサムエル記上15章29節やエレミヤ書4章28節を調べてみると、本田哲郎神父の主張しているような意味合いにはなっていません。
以下の引用は『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳(サンパウロ)によっていますが、同『聖書』の旧約聖書部分の底本は「ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア」(ドイツ聖書協会)であり、よって日本語訳は基本的に底本のヘブライ語テキストからの翻訳とされています。
そこに七十人訳聖書のギリシア語を付記して紹介します。
・サムエル記上15章28節~29節
サムエルは言った、「主は、今日、イスラエルの王位をあなたから取り上げ、あなたより優れた隣人にそれを与えられました。イスラエルの栄光である方は偽ることもなく、悔い改める(metanoēsei)ことのない方です。人間ではないので悔いる(metanoēsai)ことはありません」。
・エレミヤ記4章27節~28節
まことに、主はこう仰せになる、「すべての地はことごとく荒廃する。しかし、わたしは絶滅させはしない。この事態に、地は喪に服し、上の天は暗くなる。このように、わたしが語り、わたしが定めた。これを悔いる(metanoēsō)ことは決してなく、変えることも決してない」。
次に本田哲郎神父の推す上記の辞典で、先に紹介した「パラカレオー」という動詞について調べてみますと、340ページの12行目以下に記載があり、この動詞こそが主にヘブライ語の「ニッハム」また「ナハムー」(נחם – nacham)と相当するギリシア語である旨の記載があるのです。
(archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/340/mode/1up)
この「パラカレオー」という動詞は、マタイ福音書5章4節の有名な次の一節にも登場します。
・マタイによる福音書5章4節(『聖書』フランシスコ聖書研究所訳注)
悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる(paraklēthēsontai)。
・マタイによる福音書5章4節(『小さくされた人々のための福音』本田哲郎訳)
死別の哀しみにある人は、神からの力がある。その人は慰めを得る(paraklēthēsontai)。
いうまでもなく、日本聖書協会の新共同訳聖書でも、この箇所の日本語は「慰められる」ですが、しかしながらこれはもう、もはや基本的に「メタノイア」とは別概念と考えるべきでしょう。
本田神父が「ニッハム」また「ナハムー」として紹介するヘブライ語は、旧約聖書の他の箇所にも登場しますが、次に列挙するような文脈の場合、七十人訳のギリシア語は「パラカレオー」です。
・創世記24章67節
イサクはリベカを天幕を導き入れ、リベカを迎えて妻とした。イサクはリベカを愛して、母の死後も慰めを得た(pareklēthē)。
・創世記37章35節
息子と娘がみなやって来て、彼を慰めようとした(parakalesai)が、彼は慰められること(parakalesthai)を拒んで言った、「いやわたしは嘆きながら陰府(よみ)の息子の所に下っていこう」。こうして父はヨセフのために泣いた。
・申命記32章36節
主はご自分の民を治め、その僕(しもべ)たちを憐(あわ)れまれる(paraklēthēsetai)。彼らの力が消え去り、奴隷も自由な者がいなくなるのを主がご覧になられるからだ。
・ルツ記2章13節
ルツは言った、「ご主人さま、どうかこれからもご厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたくしですのに、あなたははしための心に触れるお言葉をくださり、慰めてくださいました(parekalesas)」。
【3】『聖書と歎異抄』でも繰り返される本田哲郎神父のメタノイア論
ここで、本田哲郎神父の「メタノイア」に対する主張が端的に展開されている記述を紹介します。
・五木寛之・本田哲郎『聖書と歎異抄』80ページ〜82ページ
「本田 ほんとうの『悔い改め』というのは、そういうことじゃないと思います。自分は悔い改めたつもりでいても、そばにいる奥さんの目で見たら、たいして変わってないんじゃないって(笑)。その程度のことなのです。」
「五木 なるほど。」
「本田 でも、街中でスピーカーで、『悔い改めよ、時は満ちた』と言って歩いている人もいますね。」
「五木 『悔い改めよ。神の国は近づけり』と。」
「本田 それが悪いと言うつもりはないのです。あの人たちは一生懸命ですから。自分が信じた以上は皆に伝えなければと思っている。その使命感と誠実さはほんとうにすごいなと思うのです。でも私は、『悔い改めただけでは、何の足しにもなってないじゃないか」って言いたくなってしまうんですよ。低みから、痛みの側から見直さなければ。
たとえば、『メタノイア』はふつう『悔い改め』『悔い改めよ』と訳されています。『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』(『マルコによる福音書』新共同訳、1章15節)は、イエスの宣教活動の第一声として多くの人になじみのあることばでしょう。しかし、人はそう簡単に悔い改めることなどできるものではありません。自分が立っている所に立ち続けているかぎり、いくら真摯(しんし)に自分を反省してみても、できることは知れたものです。福音を本気で実践しようという気になれるほど自分が変われるものではないのです。それは、洋の東西に変わりはありません。
『メタノイア』とは、本来、『視座の転換』を意味することばです。『判断の筋道』(nous)を「変える」(meta-)ということで、要するに『視座を移す』ことです。人は視座を移すことによって初めて、今まで見えなかったことも視野に入ってくるようになる。新しい視座から自分を振り返り、社会を見直す。そして自分と人、自分と社会の関わり方を見つめ直す。ここに大きな自己変革への可能性が開かれるのです。」
「五木 そうでしょうね。」
「本田 しかし、福音の要請は、視座をどこにでも移せばいい、というものではなさそうです。『七十人訳ギリシア語聖書』(紀元前三〜一世紀にヘブライ語聖書から訳したもの)との対照のおかげで、『メタノイア』が『痛みを共感する』という意味のヘブライ語『ニッハム』を訳した語だとわかりました。つまり、視座を移す先は人の痛みを共感できるところ、抑圧され小さくされた人びとの立つところということになります。
それは、社会の底辺に立つ人びとの視座を借りて、そこからもう一度見直してみよ、ということでしょう。そうすれば福音が何かということがわかるようになり、実行に移してみようという気にもなると言うのです。」
【4】「〜から」というギリシア語すら日本語訳が疑わしい本田哲郎訳聖書
上記のように、本田哲郎神父は「新しい視座から見直す」「低みから見直す」といった類いの主張が持論ですが、しかし本田哲郎訳聖書を調べると、「〜から」という意味の聖書ギリシア語すら逆の意味に日本語訳してしまっているという、実情があります。
ヨハネによる福音書8章23節は次のように主の御言葉を記録しています。
(バルバロ訳とラゲ訳は「イエズス」、その他の日本語訳は「イエス」と、主の御名前を表記しています)
「あなたたちは下からの者であり、私は上からの者である」
(バルバロ訳『聖書』(講談社))
カトリックの伝統的な英訳聖書”Douay-Rheims Bible”は次の表現です。
“You are from beneath, I am from above.”
他の日本語訳も紹介します。
「汝らは下よりせるに、われは上よりせり」
(E・ラゲ訳『新約聖書』(中央出版社))
「あなた方は下からのものに属しており、わたしは上からのものに属している」
(フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ))
「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している」
(新共同訳『聖書』(日本聖書協会))
「あなたたちは、下に向かうものに属し、わたしは、上に向かうものに属している」
(本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』(新世社))
ギリシア語本文にある前置詞“ek”の意味は「~から(より)」ですが、「~に向かう」という意味のギリシア語の前置詞はまた別に存在しており、本田哲郎訳は意味がギリシア語本文とはむしろ逆です。
アボット・スミスでは、135ページの37行目(下から10行目)に、問題のギリシア語”ἐκ(ἐξ) – ek(ex)”について記述がありますが、英語では”from out of,from”の意味であることが説明されています。
(archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/135/mode/1up)
ちなみに、このギリシア語の前置詞“ek”は、同じヨハネによる福音書の7章52節にも用いられています。
「調べてみるがよい、どんな預言者もガリラヤから出ないのがわかるだろう」
(バルバロ訳)
このバルバロ訳で「ガリラヤから」の「から」という日本語に対応する原文のギリシア語が、前述の8章23節で本田神父が「に向かう」と表現したのと同じ“ek”です。
同じヨハネによる福音書7章52節の、他の日本語訳も紹介します。
「聖書を探り見よ、さて予言者はガリレアより起こるものにあらずと悟れ」
(ラゲ訳)
「よく調べてみるがよい。ガリラヤから預言者は出ないことが分かるはずだ」
(フランシスコ会聖書研究所訳)
「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」
(新共同訳)
「ガリラヤから預言者が出ないことは、調べれば分かるはずだ」
(本田哲郎訳)
どういうわけか、同じヨハネによる福音書であるのに、本田哲郎神父の翻訳の流儀は7章と8章で全く異なっています。
このように、「〜から」を意味する聖書ギリシア語の前置詞すら、本田哲郎訳では不確かに日本語訳されてしまっているのですが、こんな体たらくでは、自説に都合が良いように聖書ギリシア語の意味すら歪曲していると言われてもしかたありません。
ヨハネ福音書8章23節では、本田哲郎訳だけが「〜に向かう」という解釈で翻訳していますが、マルコ福音書14章48節には「〜に向かう」という意味のギリシア語”epi”が用いられています。
「あなた方はまるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕まえに来たのか」
(フランシスコ会聖書研究所訳)
「まるで強盗にでも向かうように、刃物や棒ぎれをもって、わたしを捕えに来たのか」
(本田哲郎訳)
「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか」
(新共同訳)
【5】似て非なるギリシア語「メタメロマイ」から本田哲郎説を検証する
ところで、本田哲郎神父が「ニッハム」とか「ナハムー」として紹介するヘブライ語(נחם – nacham)は、次のような箇所にも登場しますので、七十人訳のギリシア語とともに提示します。
・出エジプト記13章17節
ファラオが民を去らせたとき、ペリシテ人の地を通るほうが近道であったが、神はそのほうには彼らを導かれなかった。神は、「民が戦わなければならないことを知り、後悔して(metamelēsē)エジプトに戻るかもしれない」と思われたからである。
この箇所で、「後悔する」「心変わりする」という意味合いで用いられているギリシア語の動詞は、「メタノイア」の動詞形「メタノエオー」ではなく、別の「メタメロマイ(metamelomai)」という似て非なる動詞です。
次の箇所でも、ヘブライ語原文では「ニッハム/ナハムー」(נחם – nacham)、ギリシア語七十人訳では「メタメロマイ」です。
・サムエル記上15章35節
サムエルは、その生涯の間、再びサウルを見ることはなかった。サムエルはサウルのために嘆き、主は、サウルをイスラエルの王に立てたことを悔やまれた(metamelēthē)。
出エジプト記13章17節にしろサムエル記上15章35節にしろ、「ニッハム」「ナハムー」というヘブライ語が用いられているものの、文脈を追う限り、本田哲郎神父の持論である「社会の底辺に立つ人びとの視座を借りて、そこからもう一度見直してみよ」という意味合いとは、やはり別次元の事柄でしょう。
次の箇所でも、ヘブライ語原文は「ニッハム/ナハムー」が用いられており、「『痛み・苦しみ』を共感・共有する」意味合いも確かに含まれてはいますが、とはいえ、これを「社会の底辺」へと結び付けるのはやはり飛躍と言わざるを得ない事例です。
・歴代誌上21章15節
神はエルサレムを滅ぼすためにみ使いを送られた。み使いがまさに手を下そうとしたとき、主はこれを見て思い直され(metamelēthē)、滅ぼそうとするみ使いに仰せになった。「もう十分だ。手を引け」。主の使いはエブス人オルナンの麦打ち場の傍らに立っていた。
アボット・スミスでは、この「メタメロマイ(μεταμέλομαι – matamelomai)」というギリシア語に関して、「メタノイア(μετάνοια – metanoia)」及び、その動詞形「メタノエオー(μετανοέω – metanoeō)」と同じ287ページの、23行目に記載があり、「メタメロマイ」と「メタノエオー」は同じような意味で区別が難しい旨が述べられています。
しかしながら同時にこの辞書では、「メタメロマイ」の方には”repent”(悔い改める)という意味合いの他に、”regret”(後悔する)とも記載されています。
(archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/287/mode/1up)
「メタノイア/メタノエオー」と「メタメロマイ」の区別は、実は同じ文章の中で用いられている次のような箇所で、確かめることができます。
・コリントの人々への第二の手紙7章8節〜10節(フランシスコ会聖書研究所訳)
実際、あの手紙であなた方を悲しませたとしても、わたしは悔いてはおりません(metamelomai)。──確かに、例の手紙が一時的であったにしろあなた方を悲しませたことを知っています──悔やんだ(metemelomēn)としても、今は喜んでいます。ただあなた方が、悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めた(metanoian)からです。あなた方が悲しんだのは神のみ心に沿ってのことであり、それで、わたしたちが何の害もこうむらなかったのです。神のみ心に沿った悲しみは、後悔の必要がない(ametamelēton)救いへと通じている悔い改め(metanoian)を生じさせますが、この世の悲しみは死を招きます。
「悔いる」「悔やむ」「後悔」は「メタメロマイ」、「悔い改め」は「メタノイア/メタノエオー」という使い分けが、この部分では、なされています。
ちなみに、「後悔の必要がない」という箇所で用いられているギリシア語(ἀμεταμέλητος – ametamelētos)は、「メタメロマイ」からの派生語になります。
アボット・スミスでは、24ページの上から40行目に記載があります。
(archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/24/mode/1up)
【6】マタイ福音書における「メタノエオー」と「メタメロマイ」その他の使い分け
四福音書の中で、この「メタメロマイ」という聖書ギリシア語が用いられているのは、実はマタイによる福音書だけですが、理由の一つは、マタイ福音書のみが記述しているエピソードの中でその言葉が使われているからです。
・マタイによる福音書27章3節〜4節(フランシスコ会聖書研究所訳)
その時、イエスを裏切ったユダは、イエスに対する判決を知って後悔し(metamelētheis)、銀貨三十枚を祭司長や長老たちに返して、「わたしは罪のない人の血を売って、罪を犯しました」と言った。すると彼らは言った、「われわれの知ったことではない。自分で始末するがよい」。
・マタイによる福音書27章3節〜4節(本田哲郎訳)
そのころ、イエスを売りわたしたユダは、イエスが有罪とされたと知って後悔し(metamelētheis)、銀貨三十枚を大祭司と長老たちに返しに行き、「無実の血を売りわたすあやまちをおかしてしまった」と言った。しかし、かれらは、「われわれに何の関わりがあるか。おまえの問題だ」と言った。
ユダが自殺する前の「後悔」に対応しているギリシア語は「メタメロマイ」であって、メタノイアの動詞形「メタノエオー」ではありません。
ということは、マタイ福音書で用いられているギリシア語では、ユダが自殺する前の心の動きを、「メタノイア」とは明らかに区別しているわけです。
アボット・スミスによれば、本田哲郎神父が「メタノイア」について主張しているのと同様に、実はこちらの「メタメロマイ」の方も、ヘブライ語「ニッハム/ナハムー」(נחם – nacham)に対応する聖書ギリシア語です。
しかしながら繰り返し強調しますが、マタイ福音書のギリシア語は、「メタノイア」ではないことをあえて強調するかのように、その動詞形「メタノエオー」ではなくて別の動詞「メタメロマイ」を用いています。
ところで、マタイ福音書にはまだもう一つ、「メタノイア/メタノエオー」とも「メタメロマイ」とも違うものの、似たようなニュアンスで用いられるギリシア語「エントゥメオマイ」(ἐνθυμέομαι – enthumeomai)が登場します。
・マタイによる福音書1章20節〜21節(フランシスコ会聖書研究所訳)
ヨセフがこのように考えている(enthymēthentos)と、主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。彼女の胎内に宿されているものは、聖霊によるのである、彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである」。
つまり、ヨセフが予期せぬマリアの妊娠を知った時の心の動きは、「メタノイア」とも「メタメロマイ」とも表現できないにせよ、ある意味では類似のものであった可能性が示唆されています。
アボット・スミスでは、154ページの10行目に記述があります。
(archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/154/mode/1up)
マタイ1章20節でヨセフの心の動きを表現しているものと同じギリシア語の動詞「エントゥメオマイ」が、七十人訳聖書における創世記6章6節では主なる神の心の動きを表現するものとしても登場しますが、対応する原文のヘブライ語は、「ニッハム/ナハムー」(נחם – nacham)です。
・創世記6章5節〜7節
主は、人の悪が地上にはびこり、その心の思いが絶えず悪いことにばかり傾いているのをご覧になって、地上に人を造られたことを悔(く)やみ(enethumēthē)、心を痛められた。主は仰せになった、「わたしが創造した人をはじめ、家畜、地を這うもの、空の鳥までも、地の面(おもて)から滅ぼそう。それを造ったことを悔いている(ethymōthēn)から」。
創世記6章6節だけでなく、次の7節にも、「ニッハム」または「ナハムー」(נחם – nacham)と本田哲郎神父が表現するヘブライ語が用いられていますが、それに対する七十人訳のギリシア語は、マタイ福音書で2章16節でヘロデ王が怒ったことを表現した動詞(θυμόω – thumoō)と、同じ言葉です。
(ただし、七十人訳の異本には、7節の「ニッハム/ナハムー」に対応するギリシア語として、「メタメロマイ(metemelēthēn)」や、6節に合わせて「エントゥメオマイ(enethumēthēn)」を用いているものもあるようです。)
・マタイによる福音書2章16節(フランシスコ会聖書研究所訳)
さて、ヘロデは博士たちに欺かれたことと知って、非常に怒った(ethymōthē)。
この、ヘロデ王の「怒り」をも表現する動詞は、アボット・スミスでは210ページの16行目に記述があります。
(archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/154/mode/1up)
つまり、「ニッハム/ナハムー」というヘブライ語の動詞が表現する心の動きは、本田神父が主張する類いのもの以外にも、「怒りの激情」の類いも含まれているということです。
だからこそ【3】で紹介したようなエレミヤ書4章の場面でも、このヘブライ語が用いられるわけです。
その後ヘロデ王は悪名高い幼児虐殺を行ない、それに関連してマタイ福音書の少し後には、やはり「ニッハム/ナハムー」に関連したギリシア語表現が登場します。
・マタイによる福音書2章18節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「ラマで声が聞こえた。大きな嘆きと悲しみが。ラケルは子らのために泣き、慰めを受けつけ(paraklēthēnai)ようともしない。もはや子らがいないから」。
ここで用いられるギリシア語は、【1】や【2】で紹介した「パラカレオー」です。
さて、本田哲郎神父が肯定的な心の動きとして語っている「ニッハム」というヘブライ語ですが、実はこの言葉は、「復讐を果たして恨みを晴らす」といった否定的感情を表現する意味合いでも、次のような箇所で用いられています。
兄のエサウは長子権と祝福までも弟のヤコブに取られたので、復讐の機会を窺っていました。
・創世記27章42節(フランシスコ会聖書研究所訳)
上の息子エサウのこの言葉がリベカに告げ知らされたので、彼女は人をやり、下の息子ヤコブを呼んで言った、「エサウ兄さんがお前を殺して復讐しようと企(たくら)んでいます」。
新共同訳では「エサウ兄さんがお前を殺して恨みを晴らそうとしています」ですが、この場合「(恨みを)晴らす」すなわち「(自分自身を)慰める」ということで、この箇所にもヘブライ語原文では「ニッハム」が用いられているわけです。
このように「復讐・報復」といった場面の否定的な心の動きとも「ニッハム」は関係しています。
創世記のエサウに関する逸話を教訓として、ヘブライ人への手紙12章には次の記述があり、その中に「メタノイア」という言葉が用いられています。
・ヘブライ人への手紙12章16節〜17節
また、一椀の食べ物のために長子の権利を売り渡したエサウのように、みだらで世俗的な者とならないように心がけなさい。エサウは、後になって、遺産として祝福を受けたいと望みましたが、拒まれました。涙を流してそれを求めましたが、心を翻(ひるがえ)してもらう(metanoias)余地がなかったことを、あなた方は知っています。
この「メタノイア」は、本田哲郎神父の持論である「社会の底辺」とは、どう考えても無関係です。
さてイザヤ書にも、「恨みを晴らす」という意味合いで「ニッハム」が用いられている箇所があります。
・イザヤ書1章24節
それ故、万軍の主なる神、イスラエルの力ある方は仰せになる、「ああ、わたしは敵に恨みを晴らし、わたしに仇(あだ)する者に報復する」。
エゼキエル書にも、同様の意味合いで「ニッハム」が用いられています。
・エゼキエル書5章13節(フランシスコ会聖書研究所訳)
こうして怒りは収まる。わたしは憤(いきどお)りを静め、溜飲を下げる。憤りを収めたとき、主であるわたしが妬みのうちに語ったことを彼らは知るだろう。
フランシスコ会聖書研究所訳で「わたしは憤りを静め、溜飲を下げる」の箇所が、ヘブライ語「ニッハム」に対応する表現ですが、新共同訳では「憤りに身をまかせて、恨みを晴らす」という日本語です。
そして最後にマタイ福音書3章の、「メタノイア」を含んだ洗礼者ヨハネの言葉を引用します。
・マタイによる福音書3章8節(フランシスコ会聖書研究所訳)
悔い改め(metanoias)にふさわしい実を結べ。
・マタイによる福音書3章8節(本田哲郎訳)
低みからの見なおし(metanoias)にふさわしい実をむすべ。
これまでの考察から、本田哲郎神父自身が随所で引用する「ニッハム」または「ナハムー」という言葉が、実は本田神父が主張しているもの以外の、はるかに多様な感情の動きとも関連するものであることが明らかになった以上、「低みから見直す」という日本語訳の妥当性については否定的に判断せざるを得ません。
実のところ、以下に引用するような七十人訳ギリシア語旧約聖書の「ニッハム」「メタノイア」の事例は、やはり「低みから見直す」という本田哲郎神父の持論とは別次元の事柄と考えられます。
【7】(神の)「怒りの激情」とも、「ニッハム」と「メタノイア」とは関係している
そこで最後に、七十人訳ギリシア語旧約聖書の中の、
「メタノイア(metanoia – μετάνοια、及びその動詞形、metanoeō – μετανοέω)」
について、対応するヘブライ語が本田哲郎神父の言及する「ニッハム」「ナハムー」であるものに関して、神の「怒り」に関連する箇所のものをいくつか列挙します。
・サムエル記上15章28節〜29節(再掲)
サムエルは言った、「主は、今日、イスラエルの王位をあなたから取り上げ、あなたより優れた隣人にそれを与えられました。イスラエルの栄光である方は偽ることもなく、悔い改める(metanoēsei)ことのない方です。人間ではないので悔いる(metanoēsai)ことはありません」。
(注)新共同訳の日本語訳は「気が変わったりする(metanoēsei)」「気が変わる(metanoēsai)」
・エレミヤ書4章27節~28節(再掲)
まことに、主はこう仰せになる、「すべての地はことごとく荒廃する。しかし、わたしは絶滅させはしない。この事態に、地は喪に服し、上の天は暗くなる。このように、わたしが語り、わたしが定めた。これを悔いる(metanoēsō)ことは決してなく、変えることも決してない」。
(注)新共同訳の日本語訳は「後悔(metanoēsō)」
・エレミヤ書18章7節~10節
わたしがある国やある王国に対して、これを抜き、壊し、滅ぼすと語り、わたしが警告した悪からその国やその王国が立ち返れば、わたしはただちに、それに対して下そうと計画した災いについて思い直す(metanoēsō)。または、わたしがある国やある王国に対して、これを立て、植えると語り、これがわたしの声に聞き従うことなく、わたしが悪と思うことを行えば、わたしはただちに、それにもたらそうと考えていた幸いについて思い直す(metanoēsō)。
(注)新共同訳の日本語訳は「思いとどまる(metanoēsō)」「思い直す(metanoēsō)」
・ヨエル書2章13節~14節
お前たちの衣服ではなく、心を引き裂き、お前たちの神、主に立ち返れ。主は恵み深く、憐れみ深い。怒るに遅く、慈しみ溢れ、災いを思い留まられる(metanoōn)。あるいは主が思い直され(metanoēsei)、その後に祝福を残し、お前たちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を残してくださるかもしれない。
(注)新共同訳の日本語訳は「悔いられる(metanoōn)」「思い直され(metanoēsei)」
・ヨナ書3章7節~10節
また王はニネベじゅうに次のように布告した。「王とその大臣の命令により、人も家畜も、牛や羊に至るまでみな、何一つ食物を口にしてはならない。食べること、水を飲むことも一切してはならない。人も家畜も粗布を見にまとい、力の限り神に呼び求め、各々がその悪い行いと暴力から離れなければならない。あるいは神が思い直されて(metanoēsei)、怒るのをやめ、われわれは滅びないですむかもしれない。」神は人々がその悪い行いから立ち返ったことをご覧になって思い直され(metenoēsen)、彼らの上に下そうとした災いをやめられた。
(注)新共同訳の日本語訳は「思い直されて(metanoēsei)」「思い直され(metenoēsen)」
・ヨナ書4章2節
わたしはあなたが恵み深く憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに溢れ、災いを思い留まられる(metanoōn)ことを知っていたからです。
(注)新共同訳の日本語訳は「思い直される(metanoōn)」
・ゼカリヤ書8章14節
万軍の主はこう仰せになる、「お前たちの先祖がわたしを怒らせたとき、お前たちに災いを下そうとし決意し、思い直す(metenoēsa)ことはなかった」
(注)新共同訳の日本語訳は「悔い(metenoēsa)なかった」
〔注〕七十人訳のアモス書7章3節と同章6節にも「メタノイア」は用いられているが、ヘブライ語のテキストでは両方の箇所とも「主はこのことを思い直され」となっているのが、七十人訳では前節からの預言者アモスの主に対する呼び掛けの続きの文脈で、「メタノイア」が含まれている。つまり両方の箇所とも、七十人訳では「主よ、どうかこのことを思い直してください(metanoēson)」という表現となっている。参考までに両方の箇所のヘブライ語テキストからの日本語訳(『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注)を提示しておく。
・アモス書7章3節
主はこのことを思い直され、「それは起こらない」と仰せになった。
・アモス書7章6節
主はこのことを思い直され、「これも起こらない」と主なる神は仰せになった。
【追記】旧約聖書の、いわゆる「第二正典」である知恵の書とシラ書に登場する、
「メタノイア(metanoia – μετάνοια、及びその動詞形、metanoeō – μετανοέω)」
についても、参考までに提示しておきます。
ただし、「第二正典」は基本的にギリシア語で書かれているものを本文としています。
ヘブライ語原文との比較によってではなく、文脈からその意味するところを明らかにしていくしかありません。
以下に、フランシスコ会聖書研究所訳による日本語とともに、ギリシア語を提示します。
(A)知恵5・2〜4
これを見て彼らは大いにおじ恐れ、思いも寄らない義人の救いに驚く。彼らは悔やんで(metanoountes)互いに言い合い、心の悶えに呻きながら言う、「彼は以前われわれが笑い種(ぐさ)にし、あざけりの的にした者だ、われわれは愚かだった。彼の生き方は狂気のさた、彼の最期は不名誉なものと思った。」
(B)知恵11・23
あなたはすべてがおできになるので、すべての者を憐れまれ、人々が悔い改めるように(metanoian)、その罪を見過ごされる。
(C)知恵12・10
むしろ彼らを徐々に罰して、悔い改め(metanoias)の時を彼らにお与えになるためであった。あなたは、彼らの生まれが悪く、その悪が生まれつきのものであることや、彼らの思いがいつまでも変わらないことを、知らなかったのではない。
(D)知恵12・19
あなたは、これらの業を通して、あなたの民に、義人は人に親切でなければならないことを教え、またあなたは、罪を悔い改める(metanoian)恵みが与えられる希望を、あなたの子らに抱かせた。
(E)シラ17・23〜25
最後に、主は立ち上がって彼らに報いを与え、彼らの頭上にその報いを下される。その時、主は悔い改める(metanoousin)者に立ち返る道を開き、忍耐を失っている者に慰めをお与えになる。主に立ち返り、罪を捨てよ。主の前に祈り、罪の機会を少なくせよ。
(F)シラ44・16
エノクは主に喜ばれて移され、後の代(よ)のために悔い改め(metanoias)の模範となった。
(G)シラ48・15
これらのすべてのことがあったにもかかわらず、民は悔い改め(metenoēsen)ず、また、その罪から離れなかった。こうして、彼らはついに、捕虜として祖国から連れ去られ、残ったのはごく僅(わず)かな人々と、ダビデ家の支配者だけであった。
以上から、シラ書17章に至って、「メタノイア」が「主に立ち返ること」という意味合いと一致したことが、明らかとなりました。
また、シラ書44章16節はエノクのことを「メタノイア」の「模範」であると表現していますが、創世記5章はエノクに関して、「エノクは神とともに歩んだ。」(22節)また「エノクは神とともに歩み、神がエノクを取られたので、見えなくなった。」(24節)と記述しており、この場合の「メタノイア」は、明らかに「神とともに歩むこと」という意味合いを含むものとして用いられています。
洗礼者ヨハネは、マタイ福音書3章2節において、「メタノイア」を呼び掛けるのに続けて天の国が近づいたことも告げましたが、シラ書の17章や44章の記述と比較しても明白である通り、洗礼者ヨハネが求める「メタノイア」が「主に立ち返ること」また「神とともに歩むこと」であるのは、当然とも言えます。
これに関連して、ミカ書6章8節には「人よ、何が善いことか、主が何を求めておられるかは、お前に告げられたはずだ。正義を行い、慈しみを愛すること、へりくだって神とともに歩むこと、これである」と書かれています。
申命記30章16節には「今日(きょう)、わたしがあなたに命じるように、あなたの神、主を愛し、その道を歩み、その命令と掟(おきて)を守るなら、あなたは生き、その数は増える。あなたの神、主は、あなたが入っていって所有する土地で、あなたを祝福される」とも記されています。
創世記6章9節には、「ノアの物語は次のとおりである。ノアは当時の人々の中で正しく、かつ非の打ち所のない人であった。ノアは神とともに歩んだ」と書かれています。
また、ヘブライ人への手紙11章5節~6節では、エノクについて、「信仰によってエノクは、死というものに出会わないように移されました。神がお移しになったので、人々は彼を見出すことができなくなりました。移される前から、彼は神に喜ばれていたことが証明されていました。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在すること、および、ご自分を求める者に報いを与える方であることを信じていなければならないのです」と記述されており、これもまた、シラ書の「メタノイア」に関連した記述となっているわけです。
続く7節には、「信仰によってノアは、まだ見えない将来のことについて神の警告を受けたとき、畏れかしこんで、自分の家族を救うために箱船を造りました。こうして、彼は信仰によって、この世を罪に定め、信仰に基づく義を、賜物として受けたのです」と書かれています。
以上の考察からは、マタイ福音書27章において、自殺の前のユダの心情を表現するギリシア語として「メタメロマイ」が用いられたという事実からは、ユダが自身の行為を忌み嫌い後悔したものの、それでも主に立ち返ろうとはしなかった(「メタノイア」しなかった)、という可能性が大であるようにも感じられるのです。