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試論:聖母の優しさの聖書的根拠を140文字以内で

ガラテヤ5章22節では「聖霊の結ぶ実」として、神の御独り子の母の内面とも大きく関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。ルカ1章では受胎告知の際にマリアには神からの恵みがとめどなく与えられている(28節)ことが記され、「主のはしため」と彼女は自称する。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは、

《〔神からの〕とめどもない好意を得た》

の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると比類のないこの《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する、恵みである。

(注)別エントリー「試論:マリアの賛歌を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ1章35節以下では、マリアに聖霊が降臨され彼女が神の御独り子を身籠るという事柄が告知された。従って《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節以下)すなわち《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》がマリアの内面をあふれんばかりに満たしていることには、疑問の余地などない。

新約聖書は聖霊の降臨と聖霊がもたらす色々の賜物について語る。しかし聖霊によって一人の女性が《人となられた神》を身籠ることは、空前絶後の出来事であった。本来は有限の存在であるはずの人間の女性が、無限の存在であるはずの神を宿された以上、神がその女性に授けられる賜物も、無限に違いない。

ルカ1章35節で聖霊がマリアに降臨することを表現するのと同じギリシア語で、使徒言行録1章8節は聖霊降臨を予告する。確かに五旬祭の日の聖霊降臨は「教会の誕生日」とも表現される偉大な出来事だった。しかしマリアへの聖霊降臨は神の御独り子を誕生させた。どちらが、より偉大な出来事だろうか?

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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受胎告知に際し聖母マリアは「恵まれた方」と挨拶されたが、二ペトロ1章は信仰における神からの恵み(2節)の内容を5節以下で記し、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど、「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

聖書は「主なる神」と「主なる神に忠実な人々の集団」との関係を夫婦関係(花婿と花嫁)にたとえる。箴言の最後の部分は知恵に満たされて神を畏れる女性を「有能な妻」と表現し、模範として示したが、「救い主の母」でありながら「わたしは主のはしため」とへりくだった女性を崇敬してはいけないのか?

主イエスはマタイ25章で「十人の乙女」のたとえを話されたが、7章にある通り「賢い」は主の御言葉を聞いて行うことを指し、「愚かな」は御言葉を聞くだけで行わないことを指す。詩編45編8(7)節は「神に従うことを愛して、逆らうことを憎むあなたは、油を注がれた。神の喜びの油を」と歌った。

(注)別エントリー「試論:『十人の乙女』を140文字以内で」も参照のこと。
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創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章で、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「『無原罪の御宿り』の意味するところとは」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
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救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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受胎告知の際マリアは「恵まれた方」と呼ばれたが、テトス2章11節以下では「全ての人に救いをもたらす神の恵みは、不信心と現世的欲望を捨て思慮深く正しく信心深く生きるよう教え、また偉大な神であり救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むよう教えます」と神の恵みについて教える。

(注)別エントリー「試論:マリアの賛歌とへりくだりを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6381

(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777