マルコ7章の通りファリサイ派は、神が授けられたモーセの律法の掟の他に「昔の人の言い伝え」と呼ばれる人間由来の掟を人々に課したが、主イエスは反対された。「言い伝え」の中の「目や足の不自由な者は神殿に入るな」(サムエル下5章8節)に対し主は行動で反対表明された(マタイ21章14節)。
(注)別エントリー「試論:『背負い切れない数の掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19409
(注)別エントリー「試論:ファリサイ派のパン種??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19450
【追記】
ダビデの故事(サムエル下5章8節)によりエルサレム神殿では目や足の不自由な人々の立ち入りが制限されていた。それに対して主は、あえて神殿に目や足の不自由な人々を招き入れて奇跡的な治癒を行われ(マタイ21章14節以下)それをもって「祈りの家」(同13節)のあるべき姿をお示しになった。
(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351
マタイ21章14節には主が神殿の境内で目や足の不自由な人々をいやされたとあるが、サムエル下5章8節の故事により目や足の不自由な人々は神殿に入ることを禁じられていた。神殿の人々は目や足の不自由な人々に警告を発したはずだが、主による癒しが瞬時だったためか、神殿側もなすすべがなかった。
サムエル下5章8節の故事に従い、エルサレム神殿は目や足の不自由な人々が入ることを制限していた。しかし主イエスは「人間の言い伝え」(マルコ7章)に関係なく、神殿で目や足の不自由な人々に癒しの奇跡を行われた(マタイ21章14節)。これらの人々はルカ14章21節でも同様に招かれている。