試論:「この家に平和」を140文字以内で

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

【追記】

主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。

パウロは主イエスを何度も「平和の神」と呼んだ(一コリント14章33節、フィリピ4章9節、一テサロニケ5章23節等)。これはイザヤ9章5(6)節が、人間の「みどりご」として世に来られた神の御独り子を「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼んで預言したことを踏まえている。

ルカ10章6節「平和の子がそこにいるなら、あなたたちの願う平和は、その人にとどまる」と、マタイ10章13節「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」を比べると、「平和の子」とは、「平和〔の神の御教え〕を受け入れるにふさわしい人」だと分かる。

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『柔和な人は幸いである』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5976

(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5937