試論:ファリサイ派のパン種??を140文字以内で

マルコ7章の通りファリサイ派の人々は、神が授けられたモーセの律法の多数の掟に加えて、「昔の人の言い伝え」と呼ばれる人間由来の多数の掟を皆に課した。背負い切れない重荷と化した掟の数々に、人々は自分の落ち度を指摘されるよりはとばかりに皆で互いの粗探しを始めたが、そこに隣人愛はあるか?

(注)別エントリー「試論:『背負い切れない数の掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19409

(注)別エントリー「試論:ファリサイ派を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19428

(注)別エントリー「試論:『厳しい言葉の理由』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19441

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

主イエスはマルコ8章15節で「ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種に気をつけなさい」と教えられた。同7章8節以下「あなたたちは神の掟(=モーセの律法)を後回しにして人間の言い伝えの方を固く守っている。あなたたちは自分たちの言い伝えの方を大事にして、神の掟を無い物として扱った」。

(注)別エントリー「試論:マルコ7章と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14278

(注)別エントリー「試論:『ファリサイ派のパン種』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14400

主イエスは「ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種には気を付けなさい」と教えられ(マルコ8章、マタイ16章参照)、一コリント5章は「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いてはなりません」「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」「あなたがたはパン種の入っていない者」等と教えている。

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい」である。