試論:「御言葉」を140文字以内で

キリスト教とはイエス・キリストを神である「主」と仰ぎ信じる教えであるから、当然キリスト教における「御言葉」とは、人間の世に現れた神の御独り子が天使や預言者を介してではなく御自分で直に人々にお話になった事柄、つまり福音書に収録された主イエス御自身の仰せだけが、厳密に言えば該当する。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主イエスはマタイ5章34節で「一切誓ってはならない」と命じられた。申命記6章13節に誓いの掟が現に存在していたものの、マルコ6章の洗礼者の殺害の箇所に見られる通り当時のユダヤでは、神の御旨とはあまりにも程遠い愚行の根拠として誓う行為が悪用され、洗礼者ですら命を失う体たらくだった。

(注)別エントリー「試論:『誓う』の前提条件とは?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『誓いと愚行』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエス・キリストはヨハネ1章において「言(ことば)」つまり「神の御言葉」と呼ばれる。《天使や預言者を介さず直に人々に語り掛けられる神》であるのと同時に、《人が御自分の御言葉を実行するか否かで、その人が本当に御自分を愛しているか否かを判断なさる神》(ヨハネ14章)だからでもある。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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「人を惑わす霊」は一ヨハネ4章6節に登場し、3節の「反キリストの霊」「イエスのことを公に言い表さない霊」と同じだが、4節の「偽預言者たち」を指している。「わたしたちから去って行った」「世のことを話す」「世は彼らに耳を傾ける」「キリストの教えにとどまろうとしない」などの特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:『人を惑わす霊』特徴を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:キリスト不在のキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381