ルカ12章49節「地上に火を投ずるためにわたしは来た」同3章16節「聖霊と火による洗礼」黙示録11章5節「口から火が出る預言者」エレミヤ5章14節「あなたの口に、わたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、この節の「火」とはマラキ3章2節〜3節やゼカリヤ13章9節に預言されているもので詩編12編7節〜8節や66編10節にあるように、火が金銀を精錬するのと同じく人間を清くする主の清い仰せを指す。
マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、11節の「火」は12節の「消えることのない火(=『永遠の罰』の象徴)」とは別概念で、詩編105編19節や119編140節にあるように、火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せを指す。
(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ3章には来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになるとあるが「火」とは「火が金属を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せ」を指し詩編12編7節〜8節、66編10節、105編19節、119編140節、エレミヤ6章29節、ゼカリヤ13章9節、マラキ3章2節〜3節などが関連する。
主はマルコ9章49節で「すべての人は火で塩味を付けられねばならない」と仰せになったが、「火」はマタイ3章11節と同じく「火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の仰せ」を指し、「塩味」は信仰を指す。主の仰せが人間を清くすることに関しては、ヨハネ15章3節で主御自身が御説明なさった。
(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
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主なる神が燃える柴の火の中から御言葉をモーセに語り掛けられたという出来事は、ヘブライ人にとって忘れ難い歴史上の一大事で、洗礼者の「聖霊と火による」に対し、当時のユダヤ人は「火」が何の比喩かを直ちに理解した。しかし異邦人には全く意味不明でマルコ1章8節はこの理由から「火」を省いた。
(注)別エントリー「試論:二種類の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録11章5節「二人に害を加えようとするものがあれば、彼らの口から火が出て、敵を滅ぼすであろう」は、エレミヤ5章14節「わたしは、あなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」を踏まえており、エレミヤ5章はエルサレムの背信を咎める内容の章である。
(注)別エントリー「試論;黙示録の年代を140文字以内で」も参照のこと。
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