試論:「貪欲に心を奪われるな」を140文字以内で

主イエスはルカ12章15節で、どのような種類の貪欲に対しても十分に目を光らせ、心を奪われてはならないと警告された。同16章13節「あなたたちは、神と富のどちらか一方にしか仕えることができない」マタイ13章22節「茨の間に落ちた種とは、御言葉を聞いても世の思い煩いや富の誘惑が〜」。

(注)別エントリー「試論:『あらゆる貪欲に対して』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

マタイ19章の主イエスと金持ちの青年との対話で、青年は「わたしにまだ何か欠けていますか」(20節)と質問した。主は問いに答えられ、残る問題点は「世の思い煩いや富の誘惑」(13章22節)が御言葉を覆い隠して実らなくすることだと指摘するために「持ち物を売り払う」という表現をなさった。

マタイ19章16節で主に金持ちの青年が永遠の命を得るにはどうすればと尋ねた時、それを彼は比較的容易な事柄と考えていたが、主は同13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があることを、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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