ルカ18章14節で主は、義とされたのはファリサイ派の人ではなく徴税人の方だと仰せになったが、徴税人はファリサイ派の人と違い、他人を裁くことや他人を罪人と決めつけることを一切せずただただ自分の非を認め神の憐れみを切望したからである。主は他人を引き合いに出しての弁明を好まれていない。
(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
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【追記】
生涯の大半、ダビデ王は貧困とは無縁に見えたが、詩編で神の救いを切望(40編14節、70編2節)する際、自身の内面を「貧しい」と表現した(40編18節、70編6節)。ダビデの詩編を踏まえればマタイ5章3節に登場する「心の貧しい人」とは実際には、神の救いを切望している人のことである。
(注)別エントリー「『心の貧しい人』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。
(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。
(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。
(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
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「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマルコ10章45節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。
(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
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「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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