ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸 福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。
【追記】
古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。
ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つ まり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。
ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。ガラテヤ5章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。
古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。
古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。
コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」 (ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。
(注)別エントリー「試論:『土の家』(+復活の体)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9624
一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人 の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。