黙示録18章24節は「預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺された全ての者たちの血が彼女〔の責任〕において流された」と啓示する。他方ルカ13章33節で主イエスは「エルサレム以外の地で預言者が死ぬことはない」と説かれた。従って黙示録18章の「大バビロン」はエルサレム以外ありえない。
(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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【追記】
古代のヘブライ人にとって「地上」の「地」とは、エゼキエル7章1節にある通り「イスラエルの地」を指す。同節は「終わりが来る。地の四隅に終わりが来る」と啓示するが「地の四隅」という表現で、〔古代の〕イスラエルの全体を指しており、バビロン捕囚へと続く民族の破局的事態が、預言されている。
古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。
(注)別エントリー「試論;黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155
(注)別エントリー「試論;黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038
古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。
(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699
イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。