試論:「家は見捨てられる」を140文字以内で

主イエスはルカ13章35節で「あなたたちの家は見捨てられる」と仰せになった。「家」とは、同2章49節「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」と同じくエルサレムの神殿を意味しており、紀元七〇年の滅亡後、エルサレムの神殿が変わり果てた姿となり、荒廃したまま放置されると、予告された。

(注)別エントリー「試論:『天使たちが神殿を去る』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『大バビロン』エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19595

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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【追記】

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

(注)別エントリー「試論:『たとえ天地が滅びても』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはルカ19章41節以下で心を入れ替えようとしない都の人々を嘆いて泣かれた。神は、全ての人を救われて真理(=主イエス御自身。ヨハネ14章6節)を知るようになることを望んでおられる(一テモテ2章4節)にもかかわらず、神殿を拠点とする宗教指導者たちの思いは正反対だからであった。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
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