主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは真理」と仰せになりピラトの尋問の際も「真理」という語を使われたが、この語は、旧約聖書で「まこと」と日本語訳されるヘブライ語に対応し、意味も漢字の「真、実、信、誠」に対応する。従って「嘘も方便」や「面従腹背」(マタイ7章21節)は認められない。
(注)別エントリー「真理(まこと)の神」も参照のこと。
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【追記】
ルカ6章46節「あなたたちはわたしを『主よ、主よ』と呼んでおきながら、なぜわたしが言っていることを、行わないのか?」ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結びついているのなら、愛の実践を伴う信仰こそ重要です」。
(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主よ主よと呼びながら』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。従って、「私はあなたの掟を守れてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。
(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334
マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。