主イエスはマタイ12章38節以下で「しるしを見せてください」と迫った人々に対して、救い主に求めるべきものはしるしなどではなく、むしろ救い主が語る御教えであるべきだと強調された。主イエスはルカ10章でも「仕える」を選んだマルタより「御教えを聞く」を選んだマリアの姿勢を良しとされた。
(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17886
【追記】
ニネベの人々はヨナの語る言葉に聞き従って悔い改め、南の国の女王はソロモンの語る言葉を聞くために遠路はるばるエルサレムを訪れた。異邦人の彼らでさえ神の霊感を受けた言葉に耳を傾けたのに、どうしてあなたたちはわたしの言葉を聞かずにしるしを求めるのか? 主イエスのお嘆きがそこにはあった。
主イエスはルカ11章29節以下で、ヨナの説教に悔い改めたニネベの人々と、ソロモンの知恵を聞くためにエルサレムを訪れたシェバの女王を引き合いに出されたが、この仰せには当然「あなたたち今の時代のイスラエル人は、ニネベの人々やシェバの女王にまさるものなのか」のニュアンスも含まれている。
(注)別エントリー「試論:『ニネベの回心』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11018
主イエスはルカ11章29節で、しるしを欲しがる人々を「今の時代の者たちはよこしま」と仰せになった。同4章3節「神の子ならば、この石にパンになるように命じたらどうだ」同9節「神の子ならば、ここから飛び降りたらどうだ」同23章35節「もし選ばれた者ならば、まず自分自身を救ってみろ」。
(注)別エントリー「試論:『しるしを欲しがる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14861