試論:「『実』=その人の発言」を140文字以内で

主イエスはルカ6章45節で「人の口は、心からあふれ出ることを語る」と仰せになり、どんなに隠そうと努力したとしても、人の言葉の端々にその人の本性(秘められた内面)が露呈してしまうと示唆された。主はマタイ6章22節でも同様に、目つきやまなざしにその人の本性が露呈されることを説かれた。

(注)別エントリー「試論:『目』と『ともし火』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

シラ27章6節は「実を見れば木が手入れされているかどうか分かるように、人間が心の中で何を考えているかはその人の話を聞けば見えて来る」と説く。主イエスもルカ6章44節で「木はその結ぶ実によって分かる」と仰せになり、45節で「人間の口は、心からあふれ出ることを語る」と続けて語られた。

主イエスはルカ6章45節で「人間の口は、心からあふれ出ることを語る」と教えられたが、さらにマタイ12章36節以下では、その続きとして「人間は自分の話した些細な言葉の全てについて『裁きの日』には責任を問われ、自分の言葉によって義とされたり、あるいは罪ある者とされる」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『実によって分かる』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ12章37節「あなたは自分が口にした言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる」5章22節「兄弟に『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」7章21節「わたしに『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではなく、天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」。

(注)別エントリー「試論:『新たに生まれなければ』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエス・キリストは「人は自分が発したどんな言葉に関しても裁きの日には責任を問われ、自分が発した言葉について義とされまたは罪ある者とされる」(マタイ12章36節〜37節)と舌を制御する(ヤコブ3章)重要性を強調され、心にもないことをつい口走ってしまったという言い訳を認められない。

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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