古代のイスラエルでは「主」という神こそが唯一の神であり、他の異邦の神々は忌み嫌うべき存在で、まして人間の神格化など論外だった。他方、古代の異邦人は、使徒言行録のヘロデ王(12章22節)やバルナバとパウロ(14章12節以下)の例に見られる通り、「人間の神格化」に全く抵抗がなかった。
(注)別エントリー「試論;『アグリッパ一世の頓死』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
使徒言行録12章でヤコブを殺害させた「ヘロデ王」ことヘロデ・アグリッパ一世は、ユダヤ人の歓心を買おうとしてキリスト信者たちに大弾圧を行った後、異邦人から露骨に追従され神のように扱われ、一神教信者ならば直ちに止めさせるべきところをそうせずに自己陶酔し、主の天使に打ち倒され頓死した。
(注)別エントリー「試論;黙示録17章『七人の王』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846
主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節の『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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