ヤコブ2章17節「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」は、主イエスのルカ6章49節の御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、土台なしで地面に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427
【追記】
ヨハネ5章24節では、イエスの言葉を聞いて御父である神を信じる者は永遠の命を得て裁かれることなく死から命へ移ると説明されているが、29節では悪を行う者は裁きを受けると説明され、悪を行いながらの信仰などは神はお認めにならないことがわかる。神は人間が悪から離れることを要請されている。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427
ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際には《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟である愛の掟》と《イエスを認めぬ人々が律法とするモーセが与えた掟》とを比較した。人間を「義」とするのは、《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実行如何による。
(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380
主イエスは「あなたが他の人からしてもらいたいことは全て、あなたの方から他の人にしなさい」(マタイ7章12節)を御自分の《律法》となさり、これをもって隣人愛の掟(ヨハネ13章34節)の基礎となさった。このことが欠乏しているがゆえに人々は報道で連日のように惨劇を目にし続けるのである。
(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013
ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、
《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、
《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。
人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。
(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8650