試論:ルカ17章5節の「信仰」を140文字以内で

詩編12編は裏表(嘘偽り)のある人々ばかりの風潮を「信仰のある人はいなくなった」と嘆く。古代のヘブライ人にとって「二心(ふたごころ)」は信仰とは相容れなかった。「あなたの信仰があなたを救った」や「からし種の一粒ほどの信仰」の「信仰」とは《疑う余地のない確信》《完全な信頼》を指す。

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

【追記】

ルカ17章5節で使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」と頼んだ際には主は否定的な反応を示されたが、御受難の前ペトロのために主は信仰を失わぬよう祈られた(22章32節)。安易な意向による願い事を神は好まれないが真面目に求めている人の願いはまた別である(マタイ7章7節以下)。

(注)別エントリー「試論:ルカ22章32節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5899

(注)別エントリー「試論:マナセ王の回心を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5878

「命じられたことをみな果たしたら『自分は取るに足りないしもべで、しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17章10節)と主が勧められた通り、信仰とは各自が日常の一挙手一投足をもって証しし続ける事柄であり、「増してください」(5節)と神頼みする性質の問題ではない。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360