試論:「人の子の日」を140文字以内で

主はマタイ10章23節で「人の子は来る」と仰せになり、「人の子の日」(ルカ17章22節)に言及されたが、黙示録6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日」と表現し、これらの啓示は紀元七〇年のエルサレム滅亡で実現した。支配者たちはイザヤ2章と黙示録6章の通り、洞穴からの逃亡を企てた。

(注)別エントリー「『人の子が来るのを見るまで』???」も参照のこと。
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【追記】

主はマタイ10章7節で「神の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、これと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」同11章20節で「わたしが『神の指(=聖霊)』で悪霊を追い出しているのだとしたら、神の国は既に来ている」と教えられた。マタイ6章10節の通り、神の御旨が天に行われている通り人間の世でも行われている状態が神の国の到来である。

(注)別エントリー「試論:『神の指』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節は「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって、光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『バビロンへの連行』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:連れて行かれるのはどこ?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヘブライ人の『神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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