ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりこの章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。
古代のヘブライ人の世界観に従い、ガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同じ対比を用い、「霊から生まれた者は霊」とは同1章12節の「神の御言葉である主イエスは、御自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」を指す。
古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。
古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。
ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。
ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つ まり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。
コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」 (ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。
(注)別エントリー「試論:『土の家』(+復活の体)を140文字以内で」も参照のこと。
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一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人 の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。
主イエスはヨハネ8章15節で「あなたたちは肉に従って裁く」と仰せになった。ヨハネ福音書は人間的な事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び対比する。ヘロデ王家は自分たちに同調する祭司へ大祭司の権力と富を与え籠絡していた。福音書における神殿の有力者たちの堕落はそれが原因であった。
ヨハネ1章14節には「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(新共同訳)とある。「言(ことば)」とは《御自ら人々の前に現れて御言葉を人々に直接お伝えになる神、御子である神なる主イエス・キリスト》、「肉」は人間を指すヘブライ人特有の表現である(創世記6章12節参照)。
(注)別エントリー「試論:『神が人となられた方法』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
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主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。
(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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フィリピ1章24節でパウロは現世で生き続けることを「肉にとどまる」と表現する。
一コリント15章の通り、主なる神から「永遠の命(天国の福楽)」を確約された者は天国で
「天上の体」「霊の体」
と呼ばれる朽ちない体を受け生き続けるが、それは現世の
「地上の体」「肉の体」
と別の新しい体である。
「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する
「天上の体」(40節)
を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を
「朽ちないもの」(42節)
「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)
「霊の体」(44節)
「天に属する者」(47節)
等と呼ぶ。
(注)別エントリー「試論:『イエスは復活と命』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ6章63節は、人間に由来する事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼ぶ。ガラテヤ5章16節以下は、同じく「肉」「霊」という表現を用いて両者を対比し、詳細かつ具体的に説明を加え、19節〜21節は避けるべき事柄を「肉の業」と呼び、22節〜23節は「霊の結ぶ実」について勧める。
ガラテヤ5章に見られる通り古代のヘブライ人は神に関連する事柄を「霊」、人間に関連する事柄を「肉」と表現して対比した。ヨハネ1章14節「神の御独り子は肉となられ」の「肉」も、人間を意味する。神の御独り子が神のままで「肉」としての全てを担われた(引き受けられた)ことを「受肉」と呼ぶ。
ヨハネ1章12節以下は「言(ことば)」つまり主イエス・キリストによって「神の子」とされた人々は本来「肉の欲」(13節)と無縁だとする。ガラテヤ5章24節は「肉の欲」と絶縁するという決意と日々の努力を十字架という比喩で表現し、19節以下は信者が避けるべき「肉の業」に関して列挙する。
(注)別エントリー「試論:『十字架が象徴するもの』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『日々、十字架を背負う』を140文字以内で」も参照のこと。
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ガラテヤ5章16節以下は、人間に由来する事柄を「肉」(創世記6章12節、ヨハネ1章14節)、神に由来する事柄を「霊」と表現し、各々に関係する諸悪と諸徳を説く。一コリント3章は、主に忠実に従う人を「霊の人」、信者を自認してはいても御旨からは程遠い人を「肉の人」「ただの人」等と呼ぶ。
一コリント15章は、
《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》
とを、
「地上の体」と「天上の体」
「地上の命の体」と「霊の体」
等と表現する。
ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、
コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。
創世記3章19節は2章7節を踏まえて、人は塵(土)に過ぎないと記す。6章3節では人は肉に過ぎないと記し12節も人を「肉」と呼ぶ。創世記は人を「塵(土)」「肉」と表現しヨハネ1章14節も「御言葉は肉となられ」と記すが、「肉」は道徳的な脆さ(ガラテヤ5章19節以下)とも関連している。
(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
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