一人は連れて行かれ、他の一人は残される

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされ売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」の予告は実現した。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
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ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論;『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
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申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。ルカ17章37節のギリシア語本文も、古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサ レム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。

主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節では「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
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プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
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ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。