主イエスはマタイ9章16節で「織りたての布から布切れを取って古い服に継ぎを当てたりは誰もしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」と仰せになり、考え方や教えられている内容が大きく異なる人々を軽々しく一緒に扱ってもトラブルの元になるだけであると、お教えになった。
【追記】
主イエスは使徒をお選びになる際に、既存の教派に属したことのない者か、属したことがあってもその流儀や特色に固執せず頭を切り替えた者を選んだ。例えば、初めこそ洗礼者の弟子だったが、洗礼者の言葉に従って主の弟子となり主に従うことこそが洗礼者にも忠実であることと割り切ったアンデレである。
モアブの女性ルツは亡き夫の母ナオミに「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と誓い、寄留者としてイスラエルに住んだが何一つ差別を受けなかった。ルツは「あなたたちイスラエル人はそうするけれど、わたしの故郷の流儀は違います」という口答え(減らず口)を、何一つ口にしなかった。
(注)別エントリー「試論:古代イスラエルの兄弟姉妹を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10047
ヤコブ3章16節以下は「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い思いがある」と説き、「上から出た知恵」すなわち主なる神がお与えになる知恵について「何よりもまず純真で更に温和で優しく従順なもの」と続け、「憐れみと良い実に満ちており偏見はなく偽善的でもない」と結論している。
主イエスは御自分の弟子たちに断食をさせない理由を、マタイ9章15節「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」、マルコ2章19節「花婿が一緒にいるのに婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる限り断食はできない」と仰せになった。花婿とはもちろん主御自身である。
(注)別エントリー「試論;真の『花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13774
(注)別エントリー「イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709
(注)別エントリー「試論;『花婿と大淫婦』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13533
(注)別エントリー「試論:『新しい酒と新しい革袋』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13480
エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?
(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748
主イエス・キリストは「人は自分が発したどんな言葉に関しても裁きの日には責任を問われ、自分が発した言葉について義とされまたは罪ある者とされる」(マタイ12章36節〜37節)と舌を制御する(ヤコブ3章)重要性を強調され、心にもないことをつい口走ってしまったという言い訳を認められない。
マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427
(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433
主イエスは、神の民の一員となるためにふさわしくない自分の諸々の欠点については、それを捨てなければならないが、それらの自分の欠点がもたらした過去の不始末や、現在に至る日々の厄介事や心配事については、逃げることなく向き合っていかなければならないと、十字架を背負うの表現で仰せになった。