試論:「天の国」「宝」「真珠」を140文字以内で

主イエスはマタイ13章44節から46節で、「天の国」を「宝」や「真珠」に喩えられた。この喩えで主が実際にお伝えになりたかった内容は、パウロが一テモテ6章17節から19節に記していることと同じで、「真理における『命』つまり《永遠の命》を得るために、物惜しみをせず善行に励みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命』とは??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17203

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

【追記】

主イエスはヨハネ17章3節で「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」と仰せになった。一コリント13章12節では、天の国においては人間は神を「顔と顔とを合わせて見る〔ようにはっきり理解する〕ことになる」と説明している。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『王国を受け継ぐ者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13826

放蕩息子のたとえでは父親はしもべたちに、帰って来た息子の手に指輪をはめるよう指示するが、エステル記3章10節以下に王権の委任を象徴する印章として指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人の権利回復の象徴で、人が本当に悔い改めるならば、神は全面的にその人に対する信頼を取り戻される。

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

箴言16章7節は、ある人が主に喜ばれる行いに努め続けるならその人はかつての敵とも主の仲介で和解に至るであろうと説く。ホセア6章6節は、主が喜ばれることとは隣人に憐れみの業を行うことであって「いけにえ」ではなく、そして神を知るように努めることであって焼き尽くす献げ物ではないと説く。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334