試論:「聞くには聞くが〜」の人を140文字以内で

主はマタイ13章12節で御教えを聞いても実行しない人のことを、持っていない人は持っているものまでも取り上げられると仰せになった。これは25章29節でも繰り返され恵みである御教えを隠したと同然の人は、最終的に一度与えられた恵みまで取り上げられると、タラントンのたとえで御説明された。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章のタラントンを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

ヨハネの手紙一は、キリストの弟子を自称する一方で公生活中にキリストが実際に何を語ってどう実行したかについて全く触れようとしない人々を警戒するよう呼び掛け、彼らがキリストの教会を乗っ取りキリストの御教えの代わりに世間のことだけ語り教会からキリストの存在を奪おうとしていると警告した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

マタイ7章21節〜27節で主は、「天の国」に入るための条件は「天の父の御心を行う」ことであり、たとえ預言や奇跡を行い悪霊も追い出すような人であっても不法を働くなら入れなくなると仰せになり、「わたしの言葉を聞くだけで行わない人は砂の上に家を建てた愚かな人のようだ」とも仰せになった。