主イエスはどんな貪欲にも警戒するようルカ12章15節で教えられた。マタイ1章19節で主の養父ヨセフはディカイオスと呼ばれるが、古代ギリシア語訳箴言13章25節は「ディカイオスは食事の際にどんなものにも満足する」と記す。マリアの手料理に不平不満を口にするヨセフを想像できるだろうか?
(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120
(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246
(注)別エントリー「試論:『ディカイオスとは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12714
(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
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【追記】
箴言13章25節は、神に従う義人は食事の際にも欲張らず満ち足りることを知っているが、神に逆らう悪人は万事につけて貪欲なので、他にも自分が食べられなかった美味しいものがあるのではないかという卑しい思いが先に立ち、今現在自分がどのような美食を貪っていようと少しも満足が行かないと説く。
(注)別エントリー「試論:『あらゆる貪欲に対して』を140文字以内で」も参照のこと。
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