主イエスはマタイ23章7節と8節で、御自分の弟子たちは「ラビ」と呼ばれてはならないと仰せになった。日本語聖書では「先生」と訳されることが多いが、ヘブライ語の「ラビ」をギリシア語本文はそのまま音訳した。「ラビ」には「大なる者」のニュアンスがあるが謙遜を重視される御旨とは合致しない。
(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777
【追記】
古い文語訳ではカトリックでもプロテスタントでも「ラビと呼ばれてはならぬ」の意味合いのものがあったが、ユダヤ教批判を連想させかねないとの懸念からか戦後の口語訳はもっぱら「先生」である。しかし主の仰せの真意は「わたしの弟子が『ラビ』と呼ばれることはあってはならない」というものである。
(注)別エントリー「試論:『高慢な人々の末路』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12091