主イエスはマタイ5章34節で「一切誓ってはならない」と命じられた。申命記6章13節に誓いの掟が現に存在していたものの、マルコ6章の洗礼者の殺害の箇所に見られる通り当時のユダヤでは、神の御旨とはあまりにも程遠い愚行の根拠として誓う行為が悪用され、洗礼者ですら命を失う体たらくだった。
(注)別エントリー「試論:『誓う』の前提条件とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18595
【追記】
ヘロデ・アンティパスは洗礼者の言葉に喜んで耳を傾けたが単なる好奇心からで、自分の兄弟がお人好しであることにつけ込んで、その妻と親密になり、やがて彼女を奪い取った。根はやはり悪人の彼はイエスの逮捕後、イエスにも興味を抱いたが、興味を失うと洗礼者の時と同様に、イエスを平気で見捨てた。
(注)別エントリー「試論:『洗礼者の死とヘロデ家』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18061