主イエスはヨハネ5章27節で、御父が裁きを行う権能を「子」つまり御子である御自分にお与えになったと仰せになり、また「『子』とは、『人の子』のことである」とお続けになり御自分こそダニエル7章13節以下で預言されている「人の子」つまり神の御独り子に他ならないと、ここでお示しになった。
(注)別エントリー「試論:『天と地の一切の権能は』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。
(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
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エゼキエルやダニエルが「人の子よ」と呼びかけられる時「人の子」は「人間(人類の一員)」という一般的な意味である。「人となられた神」が自称される時だけ「人の子」は神の称号としての意味を持つ。マタイ12章では「人の子」は主の人間としての側面を指し、「聖霊《神の霊》」の比較対象である。
ダニエル7章は、天において《御父である神》が《御子である神》に全権を委任する光景(13節〜14節)を啓示する。このことを主イエスは四福音書の随所で繰り返し強調され(マタイ11章27節、同28章18節、ルカ10章22節、ヨハネ3章35節、同13章3節等)、「真理」とお呼びになった。
(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
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主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。
ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。
ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。
主はルカ21章22節で、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就することを仰せになり、それは紀元七〇年に現実となった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける行為は不毛で誤りの元であり、主の仰せにも合致していない。
(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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